集団ヒステリーの感 極端な思考から抜け出せ
不安扇動社会
東京新聞2005年12月19日付
くれよんくらぶ690号
 
 「通学路対策」として、例えば東京都千代田区では学生ボランティアに人手を頼ることにした。学生ボランティアから凶悪な性犯罪者が出た場合、次はどうするのだろう。全国各地では、スクールバスで全児童を送迎すべきだ、との世論が沸騰しつつある。欧米はもとより、日本でもスクールバス運転手による幼女殺害事件が起きている。そのときはそのときなのか。少数ながら、悪いやつはどこにでも一定数いる。
 
 あまりにも異常な事件を前に、いたたまれぬ気持ちになるのはよくわかる。だがこの国で殺人は、被害者と「面識なし」が15%弱しかなく、85%が身近な知り合いにとって起こされていりのである(『犯罪白書』)
 
 冷静に考えてみよう。子育ての目標は、子どもから目を離さぬことなのか、それとも自立を促すことなのか。健全なのは、危険を大人がすべて取り除き続ける社会なのか、子どもが自ら危険を察知する力をつけてゆく社会なのか。集団登下校を続けると注意力が衰弱し、交通事故に遭遇する率も高まってしまう。汚染物質があふれ、犯罪が減らず、事故も日常的だとすれば、究極的な安心のためにはシェルターでも作って閉じこもるしか手はない。
 
 少女を誘拐したり、もてあそんだり、殺害したりするのは、犯罪者が一方的に悪いのである。通学路や学校や親たちに過失や責任があるのでは断じてない。もちろん、ふたのない深い穴があるなど絶対的に危険な場所は早急に取り除く必要がある。それは従来、大人たちの義務だ。しかし、相対的に危険な場所は、永遠になくならない。0.00001%の凶悪犯罪者のために、なぜ99.99999%のまともな大人がかわいい子どもたちから、少年時代になくてはならない道草や、子どもたちだけの時間と空間とルールづくりを、取り上げなければならないのか?百歩譲って、それで凶悪犯罪がなくなるなら妥協もしよう。だが、国ごとに、毎年ほぼ同じ数だけの殺人事件や性犯罪が起きてしまう事実に向き合うほかない。
 
 世界的に見て日本の教育現場にだけ特殊なのは、部活、給食、集団下校の三つである。部活は1964年の東京オリンピックでメダル取りに賭けた文部省(当時)による大号令で始まった。給食は、食糧難対策だった。これらには、もちろん良き面も多々ある。同時に、食に対する親子の関心を奪い、部活は性犯罪や暴力や思考停止の温床にもなった。部活がらみの暴力および性犯罪の被害者は、学校外でのそれより格段に多い。集団登校が始まったのも、歴史的には非常にはっきりしている。1963年3月に東京都台東区で起きたよしのぶ吉展ちゃん事件だ。およそ2年間、犯人の手がかりはつかめなかった。世間は騒然となり、集団下校が発明され今に至っている。そのころから、「知らない大人=悪い人」という教えが日本列島を席巻する。
 
 ここでも、0.00001%の凶悪犯罪者のために、99.99999%のまともな大人まで悪人にされた。吉展ちゃんと私は同い年だった。そろそろ、この極端な思考から開放されなければならない時期に、またしても日本列島が集団ヒステリーに覆われつつある。
 
 吉展ちゃん事件に類似したものはそれまでにも多々あった。では、なにが違ったのか。テレビの普及である。今年の年末ジャンボ宝くじで億万長者になりうるのは296人もいる。だが、当選者の顔は見えない。この確率よりずっとずっと低い凶悪な児童殺人に、子どもの自立を犠牲にしてでも、という発想は、明らかに不安扇動社会の特質である。
(日垣 隆・ひがき たかし=作家、ジャーナリスト)
【ふぼれん事務局長(菅野司)コメント】
 子どもたちを巡る痛ましい事件・事故への社会の反応に対する警鐘の文章である。とても大切なことが書かれているので、メールとHPに掲載することにした。
 
 事件がおきるたびに「おかしなことが起きる」といつも感じていた。防犯ブザーが子どもたちに配られたり、保育園や学校の門に「鍵」がかけられたりである。何らかの効果があると期待しているのだろうが、勘違いをしていないかと思うのは、私だけであろうか。31日の朝6時から11時のテレビ朝日の「やじうまプラス号外版」の20人近い出席者も共通して、同様の見解を披露していた。
 
 事件が起きたとき、どう対処するのかばかりが議論の的となる。「事件がおきにくいまちをどうつくるか」との議論は一向におきようとしない。行政マンや区議会議員の方たちは、本当に安全・安心のまちづくりを考えているのだろうか、つくづく疑問に思うことが続いている。防犯・防災ほど、区民との連携なしは考えられない課題はない。
 
 長男が始めて小学校に上がったときの保護者会で、「通学路」という用語をはじめて目にした。すぐにその制度に「異議」を唱えたことがあった。毎日毎日同じ道を行き来する、そんなつまらない制度があることに対して「おかしいのでは」と、担任に質問をした。31日のテレビ討論でも「道草のできるまち」が子どもたちの育ちにとってどんなに大切かを議論していた。30年前は「土日になると、保育園の子どもたちで公園がいっぱいになっていた。大人はだれもいなかった」。
 
 大切なのは「子どもを囲うことではなく」、また「事件に遭遇した時にどう対処すればよいのか」を教える(これかこれで大切ではあるが)ことでもなく、何もそんなことを気にせず、思い切り遊べる地域や通学路をオトナたちで考えあい、保障することである。いまだからこそ、オトナたちが自分の住んでいる「まち」を振り返るまたとないチャンスでもある。
 
 書き手の志垣さんも指摘している通り、「安全であるオトナ」が事件を起こすこともある。児童館での心優しいと思われたアルバイトが事件を起こしたこともある。教員による不祥事は大田区でも毎年それなりに起きている。いつも区議会でそのことが問題となっている。「学校内が安全」でないのは、以前からである。不祥事を起こした教員の首を切れない制度が問題なのである。
 
 もっと真剣に「安全・安心のまちづくり」を議論できないものか。お金をかけないで、オトナたちの手でまちを守ることを考える時にきたのだと思う。いいかげん「安易な安全対策」のあり方にピリオドを打つときだと思う。
 
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